本サイトを利用される際はJavaScriptが有効になるよう設定してお使いください.

柏崎大久保蝋型鋳金技術


 蝋型鋳金(ろうがたちゅうきん)は、蜜蝋(みつろう)で原型を作り、その上を粘土で覆います。それを火にかけて蝋を溶かし、空洞になった所に銅合金(銅・鉛・亜鉛・スズ)を流し込んで原型と同じ形のものを作ります。一つの原型からは一つの作品しかできません。  柏崎の大久保地区は古くから鋳物業(いものぎょう)が盛んでした。その後、鋳物業は衰えました。その中で、原得斎(とくさい)が美術工芸品としての蝋型鋳金の作品を作り、大久保の蝋型鋳金技術の基礎を築きました。その後、原惣右衛門、原直樹などの作家が日展などで活躍し、現在は原直樹の弟子の原益夫が活躍しています。

指定:県
種別:無形文化財(工芸技術)
所有者・管理者:保持団体 柏崎市大久保の蝋型鋳金技術保存振興会
保持団体・保持者:柏崎市大久保の蝋型鋳金技術保存振興会
指定年月日:昭和53年12月26日

詳しい解説

 いわゆる銅器鋳物が本県に初めて現れたのは柏崎の地である。記録によれば、南北朝時代の1338年(延元3年度又は暦応元年)、河内国丹南郡狭山教日置荘の兵衛尉藤原正貫という鋳物師が柏崎在刈羽郡泉山(後の大河内)の地に移住し、ここに本座を築き、鍋・釜類を鋳たのが始まりという。その後、1467年~8年(応仁2~3)に現在の大久保の地に転住し、本格的に鋳物業を始めたが、次いで1593年(文禄2)、越後における塩浜制定を契機に、塩釜の鋳造と貸し付けを始め、繁栄の基礎を築いた。こうして江戸時代初期から中期にかけて、鋳物業従事戸数は40軒余りに上ったが、このうち歌代、小熊、原の3家が最も名を知られ、ともにそれぞれの特長を生かし、競いながら鋳物製作に従事してきた。  しかし、中期以降、各地で製塩業が起こるに及び、この地方の製塩業は次第に衰え、貸し付け塩釜の需用も減少したため、寺院の梵鐘製造に転換したが、これまた鋳造施設や技術面で困難があり、地方受注量にも限界があって事業は衰運の一途を辿り、そのため歌代・小熊の両家は順次廃業して後継者を失い、原家一族だけが残ることになった。  こうして大久保鋳物業は重大な危機に直面したが、このとき美術工芸としての鑞型鋳金への新しい活路を切り開いたのが原得斎(1831?~67)であった。彼は父力蔵の三男として生まれたが、長兄原(本間)琢斎(佐渡鑞型鋳金技術の始祖)が1847年(弘化4)佐渡奉行の招きにより大砲鋳造のため佐渡に渡り、やがて沢根町の本間家に入婿したことから、家督を嗣ぐことになり、父の名を襲名、得斎(本名良助)と称した。彼は長兄琢斎から鑞型鋳金の技術を学び、燈篭・仏像などに得意の腕を振ったが、その遺品は彼の優れた才能と資質を物語り、精巧・細緻な美術工芸としての大久保の蝋型鋳金技術はここにその基が築かれたのである。  その後、大久保鋳金工芸界は、得斎の早逝により一時衰えるが、この間も1889年(明治22)に北越金工技会が結成されるなど技術の研鑚・育成が図られ、やがて昭和に入り新進の原直樹(1906~1994)らの出現によって大久保の鋳金工芸は時代の脚光を浴びるに至り、全国的にもその声価大いに揚った。  第二次世界大戦に際しては、一時中断を余儀なくされるが、戦後、苦心して復活に努め、今日に及んでいる。しかし、現在の大久保には伝統を受け継ぐ鋳金工芸家は少なく、原氏一族を中心に僅かしか残っていない。その一人、三代目原惣右衛門(1898~?)は、2人の子息とともに蝋型斑紫銅として完成された伝統的な技法を忠実に守りながら制作活動に打ち込んだ。その作品は商工省工芸展、日展等に入選している。又原直樹は東京美術学校を卒業、文展、日展に連続入選、日展工芸審査員としても活躍したが、伝統的な技法をふまえながら現代工芸の道に新生面を開いた。さらにその弟子原益夫(1934~)は新進工芸家として日展他各種美術展に連続入選、ソ連政府買い上げ、文部大臣賞受賞などその活躍はめざましい。他に桐山毅(1931~)がいるが、同じく原直樹に師事し、県展、日展に入選している。

所在地

 JR信越本線 柏崎駅から徒歩15分/北陸自動車道 柏崎ICから車で15分

問い合わせ先

柏崎市総合企画部文化振興課
〒945-8511  柏崎市中央町5-50
TEL:0257-23-5111   FAX:0257-24-7714

関連情報掲載ページ

「「い・い・ね!」はページ
表示日からの累計です。
いいね 0