本サイトを利用される際はJavaScriptが有効になるよう設定してお使いください.

佐渡の鑞型鋳金技術


 鑞型鋳金(ろうがたちゅうきん)は、蜜鑞(みつろう)で原型を作り、その上を粘土で覆い、粘土が乾いたら火をかけて鑞を溶かします。それを火にかけて蝋を溶かし、空洞になった部分に銅合金(銅・鉛・亜鉛・錫)を流し込んで原型と同じ形のものを作ります。したがって、一つの原型からは一つの作品しかできません。佐渡の鑞型鋳金は、本間琢斎(たくさい・初代)が、弘化4年(1847)に旧佐和田町の鶴子で大砲を作ったことに始まります。明治維新後、琢斎は美術工芸としての鑞型鋳金の作品を作り、斑紫銅(はんしどう)という独自の着色技術を生み出しました。これが旧佐和田町を中心に広まり、宮田藍堂(初代)、佐々木象堂(人間国宝)などの作家が出て、活躍しました。

指定:県
種別:無形文化財(工芸技術)
所有者・管理者:保持団体 佐渡鑞型鋳金技術保存振興会
保持団体・保持者:佐渡蝋型鋳金技術保存振興会
指定年月日:昭和53年12月26日

詳しい解説

 佐渡の鑞型鋳金技術は初代本間琢斎(1809〜1891)を祖師とする。琢斎は1809年(文化6)、越後の刈羽郡大久保村(現柏崎市)で釜や鍋なども銅器鋳物師・原得斎の長男として生まれ、幼にして家業を嗣ぎ、1824年(文政7)、鑞型鋳金の技術で初めて文房具や茶器を作成した。その後、家督を弟・三男良助にゆずって佐渡に渡り、五十里篭町(現佐渡市沢根篭町)の本間家を嗣いだ。1847年(弘化4)、佐渡奉行中川飛弾守の命により、大砲数十門を鋳造し、大いに賞讃を博した。又、文久年間、洋学者佐久間象山を信州松代に訪ね教えを請うて、柏崎で新式砲数門を製造した。明治維新後は、専ら美術工芸としての鑞型鋳銅器(花瓶・文房具・仏具・香炉等)の製作に力を入れたが、彼の独創になる斑紫銅(酸化膜を出す方法)の製品は凛とした美しさと精巧な技術を高く評価され、内外の博覧会で数多くの賞を受けた。こうして佐渡の鑞型鋳金は、彼の活躍によりその基が築かれ、明治から大正にかけ最も栄えた。琢斎を祖流とする佐渡の鋳銅作家には、彼に師事した二代本間琢斎(?〜1904)、初代宮田藍堂(1855〜1919)や真藤玉真、清水湘斎、三浦研斎、土屋宗益らの各作家があり、さらに初代宮田藍堂門下には、後に重要無形文化財技術保持者として認定(昭和35年)された佐々木象堂(1884〜1961)がいる。象堂は長らく中央工芸界で活躍し、帝展、文展審査員を歴任し、伝統的な鋳金技術に近代的な造形の手法をマッチさせた品名を数多く残した。  佐渡で初代琢斎以来の伝統を受け継いだ技術保持者は3人しかいなかったが、その一人、二代宮田藍堂(1902〜1988)は佐々木象堂に師事し、鑞型鋳銅の制作に打ち込み、帝展・文展・日展等の他、チリ・シカゴの日本工芸展・日ソ展等にも出品し、数度受賞した。その作風は初代の追従を避け、日本古代の造形美に現代感覚を盛り込むことに努めていた。又藍堂の弟子池田逸堂(1914〜1999)は佐々木象堂にも師事し、文展・日展・日本伝統工芸展に数多くの入選を果たした。さらに五代本間琢斎(1922〜2001)は初代琢斎以来の斑紫銅鋳造技術を忠実に守り伝え、制作に励んだ。なお、現在佐渡では、五代本間琢斎の長男・琢治が6代本間琢斎として鑞型鋳金の技術を継承している。

問い合わせ先

佐渡市世界遺産推進課
〒952-1209  佐渡市千種246-1
TEL:0259-63-3195   FAX:0259-63-3197

関連情報掲載ページ