本サイトを利用される際はJavaScriptが有効になるよう設定してお使いください.

相川鉱山遺跡


 相川鉱山は、16世紀末から400年にわたって金、銀を産出してきた我が国最大の鉱山で、江戸時代には幕府の直営で開発されていました。17世紀ごろが佐渡金山の最盛期で、幕府の重要な財源でした。  主な史跡のうち、鎮目市左ヱ門墓以外は国の史跡に指定されました。鎮目市左ヱ門惟明は九代の佐渡奉行で、寛永4年(1627)に急死したため総源寺に葬られました。

指定:県
種別:記念物(史跡)
時代:江戸時代
所有者・管理者:総源寺
指定年月日:昭和33年3月5日

詳しい解説

 旧相川町は慶長6(1601)年、一大金銀鉱の良脈が発見されて以来、鉱山町として発展し、慶長9(1604)年、大久保奉行は公営坑36を定め、伊豆、石見より山師36人を呼び、施設を整備した。慶長、元和、寛永の30数年は最も繁栄し、一時は相川町の人口10万と言われ、元和9年の上納額は筋金4,385両、砂金607両余、灰吹銀109両余、小判38,546両余、金に換算して152,600余両に達した。しかし、寛永12年以来、年産35,000両に充たず、享保以後は昔日の面影を失った。  鎮目市左ヱ門は、甲斐国(山梨県)鎮目村の出身で、真田攻めでは七本槍の一人として活躍した。その後、元和4年(1618)から寛永4年(1627)まで佐渡奉行を勤めた。  諏訪間歩を始め33間歩を公費投入の御直山としたり、山主の費用で経営する自分山からの公納金の低率化を計り、山主の経営を安定させるなど金山復興に力を注いだ。また、相川の全町民に二割安米を常例化したり、金銀は総買い上げ制にするなど、積極的な産金政策と経済政策に取り組んだ。その他、佐渡小判や佐渡一国に通用する極印銀の鋳造を行うなど、金山に活気を取りもどした。佐渡奉行として10年間在勤したが、相川で急死した。享年64歳。墓は弘化2年(1845)に現在の位置に建てられた。鎮目奉行の功績は、歴代の佐渡奉行の中でも名奉行として今日に伝わっている。  鉱山の開発によって興った旧相川町はその全町域が史跡ともいえ、有形無形の歴史資料に富むところであるが、なかでも直接鉱山史に関係ある遺跡、遺構の大部分は国の史跡に指定され、鎮目市左ヱ門墓のみを相川鉱山遺跡として県指定している。

所在地

新潟交通佐渡 バス 海府線千畳敷駅下車 徒歩5分

問い合わせ先

佐渡市世界遺産推進課
〒952-1209  佐渡市千種246-1
TEL:0259-63-3195   FAX:0259-63-3197

関連情報掲載ページ

「「い・い・ね!」はページ
表示日からの累計です。
いいね 0