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新穂城跡


 佐渡の国仲平野の新穂川・大野川下流域には、むかしの館跡がいくつかあります。下新穂集落にあるこの新穂城跡はその一つで、20~25メートルの幅の広い濠(ほり)で囲まれ、半円形の形をしています。大きさは東西約120メートル、南北約80メートルで、土塁(どるい)はなくなっています。地元では、この城跡は「村殿」(2~3の村を支配する小領主)であった「新穂殿」の館だと伝えられています。  「新穂殿」は鎌倉中期から室町末期ころまで、ここを本拠として活動し、天正17年(1589)上杉景勝が佐渡を攻めた時に亡びたと思われます。

指定:県
種別:記念物(史跡)
時代:室町時代後期
所有者・管理者:下新穂地区 他
指定年月日:昭和48年3月29日

詳しい解説

 佐渡の国仲平野の新穂川・大野川下流域の沖積地域には、単郭の館跡が散在している。これらの多くは方形単郭であるが、半円形単郭のものもいくつか存在する。下新穂集落中にのこる新穂城は、この館群中の一つである。  本城跡は、20~25メートルの幅の広い濠で囲まれた半円形態をなす、この地域特有の繩張りを持っている。下新穂集落に隣接する北方集落に所在する北方城跡とその形態・規模が酷似し、東西約120メートル、南北約80メートルを占める。土塁はすでに欠けているが、内郭は「城ノ内」とよばれ、「中堀」・「小門」の地名を遺している。  地元では、この城跡は「村殿」であった「新穂殿」の館と伝えている。「新穂殿」についての史料は乏しいが、文安5年(1448)地頭新穂有時の名がみられ、また新穂地頭本間備前守の関根城(上新保地内の山城)築城記事があるので、「新穂殿」は鎌倉中期から室町末期頃まで雑太(さわだ)本間氏の輩下で、本城を本拠として活動し、天正17年(1589)上杉景勝の佐渡進攻に際して亡びたものと推定される。  新穂城跡は、佐渡国仲平野における中世の地頭層の代表的城館で、古館形式をもち、また近くに関根城なる要害を遺し、当該地の「村殿」の姿を伝える好資料である。

所在地

佐渡汽船両津港からバス20分 新穂小学校下車徒歩15分

問い合わせ先

佐渡市世界遺産推進課
〒952-1209  佐渡市千種246-1
TEL:0259-63-3195   FAX:0259-63-3197

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